公益財団法人 東予育英会 東予学舎 東京都調布市にある男子学生寮

東京都調布市にある男子学生寮の紹介です。

 いしずえ

 東予育英会会長 伊藤  道男


 東予学舎設立の目的は、郷里を同じくする学生を、一同に収容し、団体生活を通じ、お互いに自己の人格を磨きあう一方、大学において専門分野を身に付け、その学問を社会に出て、十分に生かしうる人格を養成することが本来の目的であって、単独で生活するより経済的に安価であるということはむしろ副次的な機能です。

 団体生活は一面、自己本位の生活をある程度束縛することはやむを得ないことであり、特に東予学舎においては学生の義務、責任につい細かく規定され、これらの事柄を遂行することを強いられています。ただし、これらの規定は、すべて学生の自治により、自主的に定められ、自主的に運営されています。このような団体生活、共同生活を通じて、一度しかないもっとも体、気の充実した時代に人間的な、そして社会的な素地を養って貰い度いものです。このことが、とりもなおさず、学舎の設立の趣旨に沿った事を確信します。
  学舎は以上の目的から、遠く明治末期に元国鉄総裁十河信二先生を中心として、先生の学校時代に志を同じくする学生が相寄り、西条学舎として当時十数名の学生が、借家をして共同生活をはじめたのが、その発端とされています。その後大正9年に財団法人西条育英会が設立され、文京区大塚坂下町に学生20数名を収容できる宿舎を建て、主として旧西条中学の卒業生で東京に遊学する学生を敗戦前まで引き続き収容してきましたが、戦時中の強制疎開により中断のやむなきに至り、昭和28年まで再興することができませんでした。

  昭和25年に、戦後初めて東予地方出身者を母体とした東予人会が結成され、2、3回親睦会が、開催された席上、西条育英会を発展的に改組し、新たに東予地方を基盤とした東予育英会を設立し、西条学舎ではなく、東予学舎を建設してはとの声がおこり、この機運に乗り、東予学舎建設期成会が結成されました。会長に十河先生を戴き、東予地方出身の在京の諸先輩が、夫々役員に就任されました。当時は戦後まもない頃であり、まだ復興がようやくその緒についたばかりで、政治的、社会的、経済的に大変な不安があり、したがって当時の学生生活は一部の学生を除き、あらゆる面で現在と比較にならない困難な時代であったことから、学生が生活するための場を確保することが、食生活と並ぶ大きな壁であったことは否定できない状態でした。かかるときに学生のもっとも待ち望んでいた宿舎の再興の機運が持ち上がったことは、何にも増して有難いことであり、先輩の建設の手伝いをすることが、自分達学生のためであり、また、これから後に続いて上京する後輩のためにもぜひやり遂げなければならないことでもあったわけです。

  こうした学生の熱意と深い理解により昭和28年3月、50余名収容の木造2階建ての学舎が完成し、東予学舎(西条学舎)の再興が達成されました。以来昭和43年まで、15年間に百数十名の学生を世に送り出しましたが、資材不足の時代に建築したことなどにより、老朽化が早期に訪れたことと、東京に遊学する学生の漸増による収容能力不足により、再建の議が練られ、昭和43年4月より約1年間の期間と郷里在京の有志、県、各市町村の浄財8,000万円を費やし、昭和44年に鉄筋5階建ての寮舎の完成を見ました。さらに昭和58年には東予育英会創立30周年記念事業の一環として、学舎の移転・新築の構想が持ち上がり、昭和59年7月に半年の期間と6億5,000万円(土地代を含む)を投じて現在の寮舎が完成しました。これは建物・設備の近代化、育英会の財政的基盤の強化、教育環境の変化への対応を骨子として計画・実施されたもので、申すまでもなく長い歴史の間に培われた学舎の思想、財産がその基盤となっています。 

  東予学舎創立以来、700名の卒業生を数えようとしていますが、いつの時代も単なる下宿やアパートとは異なり、舎生の東京でのベースキャンプ、若者の修養の場であると位置付けられてきました。ある意味での団体生活の不自由さを通じて、知らず知らずのうちに身に付けた精神力や協調性が卒業してからの社会生活に大きな影響を与えるからです。学舎の中心は学生の自覚、学生の自治にあるということを深く考え、有意義な学生生活をおくられるよう望みます。




■沿革


明治42年頃 東京の新宿区市ヶ谷左内町に寮開設
真鍋嘉一郎(西条出身 東京大学教授)先生の発議。
世話人 十河信二氏(当時鉄道院書記、後の満鉄理事、興中公司社長、西条市長、国鉄総裁)
この背景に、禄高僅か3万石に過ぎなかった西条藩松平家の物的資源に乏しければ先づ人材の養成から始めよ、人的資源開発優先の考え方があった。
程なく牛込区に移る。
初代舎監に、今澤慈海氏(後に日比谷図書館長)就任。
大正2年春 文京区小石川大塚坂下町106に寮舎建設 ( 敷地500坪 ) 西条学舎発足。
舎監 十河信二
幹事 新名直和氏( NHK 初代愛宕山放送局長)
     鈴木安一氏
発足時の目的として次の如く謳っている。
( 1 )旧西条藩主松平子爵家の事業として、国家社会に必要な人間を造るため。
( 2 )学生をして出来得る限り日本の伝統的精神を堅持し、家庭的気分に親しましめるため。
( 3 )郷土の父兄をして、安心して経済的に子弟を上京勉学せしめるため。
( 4 )学校に於ける大衆的、形式的教育の欠陥を補うため、適当な指導と , 学生相互の切磋琢磨の機会を与うるため。
尚、自ら舎監を買って出た十河氏は、氏が明治42年東大卒業と同時に奉職した鉄道院の総裁後藤新平伯から与えられた次の3つを処世訓としたという。
1 )人のお世話にならぬよう。
2 )人のお世話をするよう。
3 )そして報いを求めぬよう。

大正9年6月4日 財団法人西条育英会登記。(西条育英会の設立は大正4年との説もある)
初代会長 松平頼庸公(就任月日は定かでない)
戦時中昭和19年頃強制疎開により一時閉鎖。

昭和25年 東予学舎建設期成会結成。
十河信二氏、伊藤述史(元情報局総裁)、安藤音三郎氏、(愛媛新報、東京機械工業、日本無線電気、それぞれの社長)、大倉銀四郎氏等、東予地区出身者が世話人となり、西条育英会を発展的解消。
対象を東予地区全般に拡げ(財)東予育英会と改称。(昭和 27.10.9 )

昭和27年7月 世田谷区下馬2-26-7の国有地払下げを受く。
加藤紘章氏、高橋房一氏(当会評議員、参協化生(株)社長)、
今井早苗氏、(当会理事、道前興産(株)社長)、明比 肇氏(当会理事、元岡三証券(株)部長)等々、当時学生であった諸氏が中心となり、東予地区出身の在京諸先輩の力を結集して、戦後まもない政治的、社会的、経済的に極めて不安定な状況の下で、再建に向け血のにじむ努力をした。

昭和28年3月 上記下馬に木造二階建の寮舎完成( 500 坪 収容人員 約50名)

昭和44年4月 同所に鉄筋コンクリート五階建建設(収容人員 約100名)

昭和59年7月 調布市多摩川1-24-1(現在地)に移築、鉄筋コンクリート四階建(延421坪 収容人員39名)



■所在地、建物


住所 〒182-0025 東京都調布市多摩川1-24-1
TEL:042-488-6261 FAX:042-488-5181

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最寄駅 京王線新宿駅井の頭線渋谷駅より乗車約20分
京王線西調布駅徒歩7分
京王線調布駅京王多摩川駅―徒歩15分
JR南武線矢野口駅―徒歩25分
敷地面積 305坪(1,007?)
建物構造 鉄筋コンクリート造4階建、延べ421坪(1,390?)
昭和59年7月竣工
収容人員 約40名
施設内容
■舎生個室部:洋間5〜8畳(全室個室)、机・椅子・ベッド・ロッカー備付冷暖房完備、インターネット接続可能
■共用部:ホール(食堂兼集会所100名収容)、浴室、トイレ(洗面・洗濯スペース)、集会室、上京保護者宿泊室、夜警室舎友会室、舎生会室、応接室