公益財団法人 東予育英会 東予学舎 東京都調布市にある男子学生寮

東京都調布市にある男子学生寮の紹介です。

すばらしい学舎の先人たち ― 十河、矢内原、村上3大先輩の記憶 ―

 昨日の創立記念祝賀会で発言の機会があれば話そうと思っていながら、次のアポの時間が迫っていたために話せなかったことの一半を、舎生とOB諸氏のために書き送ります。学舎の精神的伝統を示すものとして、また日本近代史のある部分を逆説的に象徴するものとして、極めて重要でありながらも、学舎関係者にほとんど知られていない歴史的事実であり、また学舎の存在理由にかかわるほどの貴重な事実だからです。

 学舎創立の建議を行った眞鍋嘉一郎博士(東大医学部教授)は、極めて自由な精神の持ち主、つまりリベラリストであると同時に、最も正統な意味におけるナショナリストすなわち愛国者でもありました。在職中、米国のロックフェラー財団が東大に図書館を寄贈しようとし、東大教授陣が文部省もろともこれを喜んで受け入れようとしたとき、彼は「図書館は一国の文化の凝縮物であって、国民みずから創立するものでなければならない。外国の援助によって最高学府の図書館を建設するのは、一国の民が自己の文化的矜持を放棄するに等しい行為である」と主張して譲らず、その結果、ロックフェラー財団の援助計画は白紙に戻りました。

 初代舎監の十河信二さんは、この眞鍋博士の西条中学校におけるクラスメートで、眞鍋博士に劣らぬリベラリストナショナリストでした。彼は東大卒業後、鉄道院で後藤新平の薫陶を受けたのち、日本が日露戦争で獲得した南満洲鉄道(満鉄)の理事となり、1931年の満洲事変ののち首謀者石原莞爾の諸民族協和国家満洲の建設構想に密かに協力(日本政府・軍はその逆の方向に進みましたが)、その後は日中両国の経済協力を目的とする興中公司の社長として、中国への内政干渉と支配地域拡大(要するに侵略)を図る軍部に抵抗しました。

 日本の侵略的国家行動が中国人大多数の反発を買い、その中国人の対日抵抗運動を武力で抑えようとする日本官民の行動が、各層中国人のさらなる反発を買っていた時代です。その状況を招いたのは、1936年2月のクーデター未遂事件(2・26事件)を経て政権を左右する力を持つに至った日本軍部の暴走でした。

 その2・26事件の半年後の36年9月、十河さんは月刊『文芸春秋』に「対支政策の質的転換」と題する論文を発表しました。それは、日中関係悪化の主因が、中国を蔑視し、中国人には近代国家建設の能力はないとして中国大陸への侵略的進出を図る日本人、とりわけ軍部の夜郎自大な姿勢にあるとして、これを厳しくたしなめる勇気ある論文でした。

 「(日中関係の悪化については)日本側に反省すべき点が多々ある。……中国大陸に資源と市場を求めるだけならば、それは英米の対中国行動と何ら選ぶところがない。……日本の発展は、断じて帝国主義的であってはならない。自己本位の征服、搾取主義であってはならない。……もし日本が、旧態依然たる威力的対中国政策を脱し得ないならば、おそらく中国の民衆は力を英米に借りるか、しからずんば共産党の手中に堕ち、日本は永遠の仇敵となるほかはあるまい。……全国民の覚醒出直しが先決問題である」

 これは中国と中国人を日本および日本人と対等の存在として正当に評価する「中国再認識論」の出発点をなす論文でした。

 この十河さんの主張をさらに明確かつ論理的に展開したのは、同じく東予出身の東大教授矢内原忠雄さん(新渡戸稲造の愛弟子で、当時の日本における殖民政策研究の第一人者)です。彼は『中央公論』の37年2月号に「支那問題の所在」と題する論文を発表しました。それは十河さんの論文と同じく、中国と中国人を対等の友人として認めない限り日中関係に豊穣な未来はないと主張するものでした。

 「支那問題の中心点は、民族国家としての統一建設途上に邁進する中国を認識することにある。この認識のみが科学的に正確であり、……この認識に基いて中国の民族国家的統一を是認しこれを援助する政策のみが、中国を助け、日本を助け、東洋の平和を助けるものである。この科学的認識に背反したる政策を強行するとき、その災禍は遠く後代に及び、中国を苦しめ、日本の国民を苦しめ、東洋の平和を苦しめるであろう」

 中国と中国人を正当に評価すべきだという「中国再認識論」は、この矢内原論文によって、日本論壇に一気に燃え上がることになりました。矢内原さんは同年1月6日の報知新聞(今の読売新聞)にも「大陸政策の再検討」という論文を寄せ、「日本の大陸進出はあくまで満洲を限度とすべき」であって、それ以上の軍事的進出は日中双方にとって有害であると述べています。

 十河さんや矢内原さんのこういう主張は、当時の学界、言論界、官界や、政財界のかなりの部分に浸透しました。日中関係がしばらく平穏で、両国間に対等の経済・文化協力の機運が芽生えたことについては、この二人の功績をいくら高く評価しても評価のしすぎにはならないと思います。興中公司は日本の国策会社で、日本軍部はこれに中国北部での親日派育成や軍需物資の調達などを期待していましたが、社長の十河さんは「対等の日中経済協力」という旗を堂々と掲げて活動していたわけです。

 二人の論文は、実に予言的でした。自己の無知を自覚せず、従って無恥でもあった軍部が政権を壟断した結果、日中関係は二人の危惧した方向に進み、日本は日中戦争の泥沼に足を取られたあげく、遂に米英との戦争という大ギャンブルに自己を投げ込み、結局は惨憺たる敗戦を味わうことになりました。そして中国は共産党の天下となったのはまだしも、後期マオイズムによる文化大革命に苦しみ、その苦境を脱したのち、今度はかつての日本を思わせる軍事大国として周辺諸国の脅威となっています。

 歴史の弁証法というものでしょうか、このように、ある国のある政策選択が世界史の方向を変えることも珍しくないのです。

 十河さんと矢内原さんの論文が日本論壇で注目されてまもない1937年7月、北京近郊で蘆溝橋事件が起き、日本は一気に「暴支膺懲」すなわち武力による「中国制裁」の道を突っ走ることになりました。矢内原さんはこの事件の直後、『中央公論』に「国家の理想」という論文を寄せました。国家の理想は「正義と平和の実現にある」と強調し、暗に軍部の大陸侵略を批判したのです。軍部はこれを見逃さず、内務省を通じて中央公論社に矢内原論文の全文削除を強い、文部省にも圧力をかけて矢内原さんを東大から追放しました。彼が総長として東大に復帰したのは戦後のことです。十河さんが西条市長を経て、国鉄総裁として日本社会の表舞台に復帰するのも戦後のことでした。

 私が東予学舎に入った1950年代初頭、十河さんは東予育英会会長、矢内原さんは理事でした。当時の学舎は米穀商に見放されるほどの極貧状態で、私は矢内原さんに寄付をお願いし、2千円をいただいた記憶があります。ラーメンが28〜30円、夜泣きそばが17円のころでしたから、これは大金でした。

 十河さんも矢内原さんも、日本という祖国に、それを愛するがゆえに正義を求めてやまない人物でした。私の網膜には、この二人と、戦後初めての国会図書館長で日本には稀な森林エコロジストだった村上龍太郎さん(東予育英会理事)の、高度の近代的知識人でありながら古武士を絵にしたような面影が焼きついています。

 私が貴族出身でも何でもない「平民学生」(先祖は日本最古の越智水軍の首領だったそうですが)の身で旧赤坂離宮(今の迎賓館)に足を踏み入れることができたのは、1950年代にそこが国会図書館になっていて、村上さんがヴェルサイユ宮殿を模したといわれる2階の一角にあった館長室に私を招いてくれたからです。そのときの村上さんの言葉が今も耳の奥に残っています。「こういう、全館美術品のような建物は、ルーヴルのように美術館にこそふさわしい。図書館の命は図書そのものだ。建物じゃないよ」

 その言葉を思い出すと、私は旧陸軍世田谷連隊の厩舎跡にできた初期の東予学舎のお粗末さ(例えば1・2年生は1室に12人)を連想せざるをえません。今の学舎も21世紀第1ディケードにおける日本の公的建築物の平均水準に照らせばお粗末ですが、そんなことは大した問題ではない。学校と学生宿舎の命は学生そのものだ。建物じゃないよ。

 はるか後年、今は亡き高橋、加藤両舎監から聞いたことですが、私が史上最大の局地国際戦争だったヴェトナム戦争の現場で取材活動を続けていたころ、村上さんはときどき「井川君には、是非とも命懸けで戦争の中の人間の運命を見届けてほしい。だが、是非とも生きて帰ってほしい」と話していたそうです。

 私は生きて帰ってはきました。しかし「戦争の中の人間の運命」を真に見届けることができたかどうか、またそれを正しく報道することができたかどうか、余り自信がありません。いずれ泉下で村上さんと再会するとき、どう挨拶すればいいのかなあ。

 東予学舎の皆さんには、こういう先人の事跡を是非とも知ってほしいと思います。彼らは必ずしもこの世の大衆に歓迎される存在ではなかった。しかし、その精神は時代の支配的思潮に単独でも対抗できるものだった。ただ騒々しくて猥雑なだけのTVの番組を見ればわかるように、自称知識人が大衆に歓迎されるということは、彼らが実は知識人ではなく、従って士大夫(サムライ)ではなく、この世に対していかなる指導的役割も果たしえない愚衆同然の、極めて卑小な精神の持ち主であることを意味します。いま私の紹介した東予育英会の先達3人は、そんな今風の「劣化知識人」ではありませんでした。彼らは優に数百万の民衆を指導することのできる――または数百万の民衆に背を向けられてもわが道を往くことのできる――高貴にして広大かつ強靭な精神と、これを支える知的・倫理的能力の持ち主でした。

 彼らのその精神は、今なお泉下から東予学舎を見守り続けていると思います。彼らの最も嫌ったのは、矮小な精神、とりわけ嫉妬、怨恨、憎悪というようなネガティヴな情念です。彼らは、私の記憶によれば、すさまじいばかりの公憤の人々でしたが、全く私憤を持たず、いかなる人をも嫉視せず、恨まず、憎まず、また決して差別しませんでした。広大無辺の愛と、その愛を妨げる者たちへの怒り、それが彼らの日常を貫いていました。

 1950年代の世田谷にあった東予学舎は、戦後日本における一つの奇跡だったのではないか。私一人の夢かもしれませんが、その奇跡を今の東予学舎に再び期待したい。東予学舎は何を措いてもまず「正義と愛の家」、また「サムライの家」でなければならないと私は思っています。「古いなあ」という声が、どこかから聞こえてきそうですけれどね。

 この話は、核兵器地球温暖化の問題に日本と日本人がいかに対処すべきか、米国のオバマ政権はそれとどうかかわるのか、日本はそのオバマ政権にどう対処すればいいのか、というようなことにつながってゆくのですが、それらは省略させて下さい。日米関係の秘密の深部、9・11事件の真相(あれはブッシュ政権中枢を支配したチェイニー副大統領らネオコン指導部の陰謀によるものでした)、北朝鮮核実験の背景、拉致問題解決の正道などについては、いずれ詳細にお話しする機会があるかもしれません。

以上  第4回(昭和32年卒業)井川一久